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ロバート・ハンセンFBI特別捜査官スパイ事件

ロバート・ハンセンFBI特別捜査官スパイ事件

風魔@KAZAMA MYS 2002.07.16.
多くはFBIによる供述書/Affidavitを参考.

被 害

彼が取り込まれた期間中(1985〜2001年),少なくとも以下の国家機密書類がKGB (旧ソ連),SVR (ロシア)に渡ったとされている.
●国家測量・記号化情報プログラム(極秘/過度秘匿区):National MASINT(=Measurement And Signature INTelligence) Program (Top Secret/SCI : Sensitive Compartmented Information)
●合衆国二重スパイプログラム(秘):United States Double Agent Program (Secret)
●FBI 二重スパイプログラム(極秘):FBI Double Agent Program (Top Secret)
●合衆国情報コミュニティー情報要求展望包括的概要(極秘):United States Intelligence Community's Comprehensive Compedium of Future Intelligence Requireents (Top Secret)
●KGBによる対CIA勧誘作戦エージェントの研究(秘):study concerning KGB recruitment operations against CIA (Secret)
●合衆国原子力に関するKGBによる調査の評価(極秘):assessment of the KGB's effort to gather information concerning certain United States nuclear programs (Top Secret)
●CIAによるKGB第一総局分析(秘):CIA analysis of the KGB's First Chief Directorate (Secret)
●高機密区分合衆国政府プログラムによる外的脅威の高機密厳重制限分析(極秘/過度秘匿区):highly classified and tightly restricted analysis of the foreign threat to a specific named highly compartmented classified United States Government program (Top Secret/SCI)
他多数の機密に類する書類.

その他,FBI による対諜報活動(=カウンター・インテリジェンス)の詳細な手法・技術・情報源・作戦の数々,さらにFBI のKGB/SVR に対する作戦を洩し,FBI の対ソ連/ロシア諜報員監視活動に対する助言をし,その監視活動に警告を与えてもいた.

報 酬

KGB/SVR から受け取った報酬は…
 ○現金60万ドル
 ○ダイヤモンド
 ○モスクワ銀行のエスクロー資金(第三者預託資金)として少なくとも80万ドル

経 過

1944.04.18 :誕生(イリノイ州シカゴ)その後もシカゴにて育つ
1966 :化学の学士号取得(イリノイ州ノックス大学)
 同大学ではロシア語も学ぶ
1966〜1968 :歯科医術を学ぶ(イリノイ州ノースウェスタン大学)
1971 :MBA取得(イリノイ州ノースウェスタン大学)
1971〜1972 :イリノイ州シカゴの会計事務所で下級会計士として勤務
1972 :シカゴ市警にて監査部金融課の捜査官になる.
1973 :公認会計士になる
1976.01.12〜 :FBI特別捜査官になる
 研修後インディアナ州インディアナポリスの地方局に勤務
 以後,知能犯罪を担当する
1978.8.2〜 :FBI ニューヨーク支局勤務
 経理・会計系の犯罪を担当する
1979.03 :ニューヨーク支局の対諜報データベースの自動処理化の作業を支援
 同データベースは他国の外交官・諜報員のデータで米国のためのダブルエージェント情報も含んでいた
 同データは機密レベル『秘』に区分された
1981.01.12〜 :FBI 本部勤務
 情報部にて管理官として勤務

バージニア州に住居を購入し家族と居住

1981.01〜 :予算部門担当
 (FBI の情報・対諜報活動に関わる全ての情報に接触できる部門)
1983.08〜 :ソ連分析部門担当
 (ソ連諜報員捜査,及びFBI や米情報コミュニティへのソ連分析の提供を担当する部門)
1981.09.23〜 :ニューヨーク支局に管理官として勤務
1985.08.01 :在米ソ連大使館KGB政治局情報員ヴィクトル・M.デグタイアのバージニア州にある自宅に手紙を送付
1985.08.04 :デグタイア宅に手紙が届く.
 その封筒の中はさらに封筒が入っていて,『開けるな.開封せずにヴィクトル・I.チェルカシンに渡せ』と書いて
 あった.
 チェルカシンは当時在米ソ連大使館でのKGB 政治局の長.その封入されていた封筒にも差出し人名は無く,ただ
 『B』とだけあった.
 その封筒に入っていた文章の内容は,大体以下のような内容だった…
 ○近々にデクタイア氏宛に米情報コミュニティの機密書類数部([極秘]区分)を送る予定である
 ○同書類一式への対価に10万ドルを希望する
 ○KGBのボリス・ユジーン,セルゲイ・モトーリン,バレリー・マルチノフは二重スパイなので私は身の危険を感じる
 (同情報は[秘]区分)
 ○今後の支払いに関することや接触に関しては,あなた個人に知らせる
 ○他云々…

* バレリー・フェドロビッチ・マリチノフ
 1980年10月からKGB科学技術部門の情報官として在米ソ連大使館に勤務.1982年4月にFBI の協力者になったがハンセンの上記内容の手紙と,同時期にKGBに協力していたCIA職員オルドリッチ・エームズのタレコミのせいで1985年11月にモスクワに召還.11月7日に逮捕され処刑される.
* セルゲイ・ミハイロビッチ・モトーリン
 1980年6月からKGB政治部門の情報官として在米ソ連大使館に勤務.1983年1月にFBI の協力者となる.1985年1月にモスクワに戻るが,ハンセンの上記内容の手紙と同時期にKGBに協力していたCIA職員オルドリッチ・エームズのタレコミのせいで1985年11月に逮捕され1987年2月に処刑される.
* ボリス・ニコライエビッチ・ユジーン
KGB政治部門情報官だが,学生としてサンフランシスコに1975年〜1976年に在任.その後タス通信の通信員として1978年〜1982年勤務したが,同期間中にFBI の協力者としてリクルートされる.モスクワ帰還後はKGB 内務調査官となるがハンセンの上記内容の手紙と,同時期にKGBに協力していたCIA職員オルドリッチ・エームズのタレコミのせいで1986年12月に逮捕.懲役15年となるが1992年の政治犯恩赦により解放され米国へ移住.

1985.10.16 デグタイアのバージニア州の自宅に米情報コミュニティに関する多量の機密書類(内数部はオリジナル)が郵便で届く.
 *同日午前8:35,FBI はデグタイアが普段は持ち歩かない大きなバッグを持って大使館に入るのをチェックしている.

その数日後,デグタイアの自宅に[B]からの手紙(消印は1985.10.24 ニューヨーク)が届く.
その内容は大体以下の通り

 ○私宛の包みはノットウェイ公園の西にある木の橋のすぐ近くにある曲り角に
 ○その包みは緑か茶のゴミ袋(防水)を使え
 ○合図の場所は,公園入り口を出た西側の歩行者通路を表す標識に
 ○白いテープを1本垂直に貼ったら受け取り準備済み
 ○包みを置いたら白いテープを1本水平に貼れ
 ○こちらが受け取ったら,さらに白いテープを1本垂直に貼ることにする
KGB はこのデッド・ドロップの場所を『PARK』というコードネームで呼ぶことにした.

1985.11.02 KGBは『PARK』に現金5万ドルを置き,今後の連絡方法を書いたメッセージを残す.
1985.11.08 デグタイアとチェルカシン宛に手紙が届く.内容は大体以下のようなカンジ.

 ○5万ドルありがとう.
 ○そちらが希望する接触方法はリスクがあるので拒否する.
 ○10万ドル相当のダイアモンドなんかが欲しい.
 ○先に挙げた3名はホントに裏切り者だから注意して.じゃないとこちらもヤバイから.
 ○NSAも注意して.

1986.03.03 KGBは『PARK』にモノを置くが[B]が取りに来ないので同日中に回収した.
1986.06.30 デグタイアの自宅に[B]からの手紙が届く.内容は大体以下のようなカンジ.

 ○連絡が遅れて申し訳ない.
 ○セキュリティ上の問題を心配していたが,たった一つだが不安に思うコトがおこった.
 ○FBI がビクトル・ペトロビッチ・グンダレフに最初に接触した際,チェルカシンのことを知っているか聞いた.
 ○FBI はチェルカシン重視していないハズで,これは異例のコトだ.
 ○今後も連絡を続けたければ,ワシントン・タイムズの『売ります欄』にダッジ・ディプロマ千ドルの広告を出せ.
 ○その広告に電話番号と電話していい日時も明記すること.
 ○こちらから電話をかけたときに,こちらの電話番号を言う.
 ○その電話番号には私へのメッセージを1時間録音できる.
 ○私が電話するときは『もしもし,私はラモンといいます.タイムズで車の売ります広告を見て電話しました.』
 ○そちらは『申し訳ない.車の持ち主は今不在です.そちらの連絡先を頂けますか?』と返答するように.
 ○連絡先電話番号の市外局番は212だ.電話では市外局番は言わないので.

 * ビクトル・グンダレフはKGB政治部門情報官で1986年2月14日に寝返っている.
 '86年3月4日にFBI との尋問でチェルカシンの写真を見せられ,この男について知っているか聞かれている.

1986.07.14 KGBは[B]の指示通りワシントン・タイムズに広告を出す.
 ○ダッジ '71年型ディプロマ 千ドル
 ○電話番号:(703)451-9780 (来週月,水,金.午後1時)

 *上記電話番号は,当時はバージニア州のあるショッピングセンター近くの公衆電話の番号

1986.07.21 [B]は広告に載っていた電話番号に電話をかけた.
電話に出たのはソ連大使館勤務のKGB 政治部門情報官:アレクサンドル・キリロビッチ・フェフェロフ
フェフェロフは[B]から教えられた電話番号に1時間後にかけ,モノを[PARK]に置いたことを伝えた.

ただしKGB は置き場所を間違えてしまった.

1986.08.07 デグタイアが[B]からの手紙を受け取る.
内容は…
 ○デッド・ドロップ場所には何も無かった.
 ○先の電話番号[(703)451-9780]に8月18,20,22日のいずれかに再度電話する.
これを読んでKGBは一旦モノを回収した.
1986.08.18 [B]が[(703)451-9780]に電話をかけ,フェフェロフが出た.
内容は…
 [B]: 明日の朝では?
 [F]: う〜ん,そうですね.例の車は先日あなたと同意した状態のままとっておいてあります.
既に書類も全部用意できていますし,前回もテーブルの上に置いておいたのですが,テーブルの反対側の角に私が置いてしまったので 見つけられなかったのでしょう.
 [B]: わかりました.
 [F]: ご心配は無用です.全て順調です.今は書類は私が持っています.
 [B]: いいね.
 [F]: まぁこんな状態ですから,ん〜…,場所と時間は変える必要がないと思いますよ.私どもは信頼のできるところですし,十分な額を値引きする 用意もあって,同封の書類に記載しておいてあります.そこで商談ですが,2月13日午後1時にしたいのですが,よろしいですか?
 [B]: 2月2日では?
 [F]: 13日.13日です.
 [B]: 13日ね.
 [F]: そうです.13日.午後1時.
 [B]: ちょっとその日が空いているか確かめさせて下さい.ちょっと待ってて.
 [F]: わかりました.どうぞ.

(しばらく無言が続く)

 [B]: (何か呟く…)
 [F]: もしもし? どうですか?

(しばし無言状態が続く)

 [B]: (何か呟く…)6…6…

その日は大丈夫です.

 [F]: OK.書類はお約束の場所で必ず見つけられるとお約束しますよ.
 [B]: 大変結構.
 [F]: はい.書類を受け取った頂けたら,いつものように返信とサインをして頂けますね.
 [B]: 安心してください.
 [F]: その場所は覚えて頂いているもの思います.え〜,これで全く問題ないですね?
 [B]: 全く問題ないと思いますよ.どうもありがとう.
 [F]: はは.どういたしまして,どういたしまして.お互い良かったですね.あ〜…ではこれで.
 [B]: ダズビダーニャ
 [F]: バイバイ
 

この会話の後,KGBはデッドドロップ場所[PARK]に現金10万ドル置き,さらに別の2つのデッドドロップ場所の提案をし,うち一つがハンセン(=[B]に採用され,[NANCY]と呼ばれることとなる.
また,緊急時の連絡先としてオーストリア・ウィーンのKGB情報官の連絡先が教えられた.
[NANCY]はバージニア州にあるKGB政治部門情報官ボリス・M.マラコフの自宅で,マラコフはデグタイアの後任として勤務するソ連大使館報道官.

その後しばらくしてデグタイアの自宅に手紙が届く.
宛先の住所や返信先の住所が手書きで書かれていて,差出し人は[ラモン・ガルシア].
消印は1986年8月19日.手紙の中には手書きで『10万ドル受領.ラモン』とあった.

1987.08.03〜 :FBI 本部勤務
 情報部ソ連分析部門管理官として勤務

バージニア州に新居を購入し家族と居住

1987.09.11 マラコフの自宅に手紙が届く.差出し人名はR.ガルシア.消印は1987年9月8日.
内容は大体以下の通り.
 ○いや,決めてしまったことです.これは私事で,それ以外のなにものでもない.
 ○国内や海外でそちらと会うことはないと思う.
 ○私が可能なときにはそちらを手助けするし,その時に効果的な連絡方法を見い出せるだろう.
 ○3月16日までにそちらからサイン場所に中断の印がなければ,3月18日に届くようにモノを送りましょう.
 ○そちらからの合図とモノが3月22日午後1時以前,あるいは翌3週の間の同じ時間にあるよう待ちます.
 ○以上の提案が受け入れられないなら,合図をせず退いて下さい.
 ○この連絡方法は彼が優秀なおかげで今ではとても保秘に優れています.
上記の日程は,実際にはそれぞれ9月10,12,16日を指す暗号になっている.
1987.09.14 KGBは米国家安全保障会議の極秘書類が入った小包を受け取る.
1987.09.15 KGBは[PARK]に現金10万ドルを置く.
1987.09.16 KGBは[B]が[PARK]からモノを取り出し,印を消したのを確認.
1987.09.26 KGBは[PARK]から[B]の返事を受け取る.
内容は大体以下の通り.
 ◯10万ドルありがとう.
 ◯私は若くないので,そちらが提案するような場所を連絡場所に使うような時間は無い.
1990.06.25〜 :FBI 内部監査官として勤務
 FBI支局・地方局・在外大使館を回る
1991.07.01〜 :FBI 本部勤務
 情報部にて管理官として勤務
 対ソ連作戦部門のプログラム・マネージャーとして勤務
1992.01.06〜 :FBI 本部情報部国家安全脅威リスト部門の長として勤務
 主に対経済諜報に力を注ぐ
1994.04 :FBI ワシントン支局に一時的に勤務
1994.12 :FBI 本部勤務復帰
 国家安全部副部長として勤務
1995.02.12〜 :国務省海外作戦室でのFBI 上級代表を務めるために派遣される.
 国務省海外作戦室内の諸機関間のスパイ防止活動グループの長として勤務.
2001.01.13 :FBI 本部に新設された情報資源部に勤務
 →FBI は既に彼の行動を疑っており,彼の日々の行動を警戒されること無く監視しやすくするための異動